コラム

「正義派の農政論」

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【森島 賢】
大震災と原発事故から何を学ぶか

 政府の検討会が31日に発表した報告書は、34mの大津波を想定して、防災対策を考えるように提言している。国会議事堂は、屋上までの高さが21mだから、その1.6倍になる。
 そのうち、34mの堤防を日本の全ての海岸に張り巡らせ、と提言するのだろうか。驚くというより、むしろ、あきれる。34mに、どれほどの意味があるのか。
 ここに、いまの防災学の限界をみることができる。確率論に基づく科学的認識の限界といってもいい。
 いまこそ、東日本の大震災と、福島の原発事故を教訓にして、防災学を根本的に検討し直さねばならない。そうして、防災計画を提案しなければならない。検討の要点は、社会科学者に協力を求めることである。
 もしも、局所的にせよ、34m以上の津波がきたらどうするか。自然科学者なら、こんどの大震災のように、想定外といって他人事で済ませるだろう。
 しかし、社会科学者なら、そうは言っていられない。社会科学者なら、大震災によって東日本の社会が受けた深刻な被害を、なぜ防げなかったか、という反省をするだろう。そして、それは、自然科学者に対して、確率だけにたよる科学的認識に反省を迫るだろう。そうした反省の上に立ってこそ、新しい防災学の展望が切り開かれるに違いない。

 原発事故についても同様である。自然科学者なら、事故の確率を小さくすることだけが対策になる。こんどの報告書も、そうした考えに基づいている。だが、これには限界がある。というよりも、こうした考えが、こんどの大事故をおこした原因だ、ともいえる。
 社会科学者なら、たとえば、放射性物質を大気中に大量に出てしまったばあい、社会はどのような対策をしておけばいいか、を防災計画の中心に据えるだろう。
 そうした防災計画に、これまでの科学的認識を反省した自然科学者なら、同意するだろう。そこから新しい認識に基づく防災学が出発するだろう。

 実際に、こんどの原発事故では、放射性セシウムを大気中に大量に出してしまった。この事故に対して社会は有効な対処ができないでいる。
 除染はしているが、放射能の総量は、長い期間にわたって減衰することがない。だから、薄めるか、濃縮して捨てるしかない。しかし、捨てる場所がない。これは、社会の問題である。だから社会科学者の研究対象である。

 放射能の総量は、長いあいだ減衰させることが出来ないのだから、防災計画を立てようがない。だから、原発計画をやめるしかない。原発の再開など、もってのほか、というしかない。
 いま、防災学の自然科学者が向かうべき道は、2つしかない。放射能を消滅させる科学と技術を作り出すか、それができないなら、その技術が出来上がるまでの間、原発を止めることである。それは永久に出来上がらないかもしれない。それなら、永久に原発をやめるしかない。
 いまこそ、自然科学者と社会科学者とが協同して、新しい防災学を打ち立てるときである。そうして、新しい科学的認識に基づく新しい防災対策を世に問うべきである。そうすれば、こんどの大震災と原発事故で地に堕ちた科学への信頼を、再び取り戻すことができるだろう。

 


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(2012.04.02)