委員会の役割りは、原子力利用の安全の確保である。ここのところに、じつは重大な問題がある。そもそも原発は安全なのか。
原発からは、人間が近づけば20秒で死ぬ、というほどの強烈な放射性廃棄物がでてくる。この廃棄物を、最終的にどう処分するのか。その方法がない。
地下深く埋めるというが、この方法は日本学術会議から、「白紙に戻すくらいの覚悟を持って、見直」すように、といわれている。地下で十万年もの間、強い放射能を出し続けるからである。その間に地殻変動などで地上に出てきて、人間に強い放射能を浴びせかける可能性がある。
十万年間といえば、十万年前には富士山は今の形をしていなかった。
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委員会が、原発の安全性を確保するというのなら、原発からでる放射性廃棄物から、放射能を取り除く科学と技術を見つけてからにしてもらいたい。そんなことは、いまの科学では不可能だ。
反原発の考えは、原発に安全性はない、という科学思想なのである。
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百歩も千歩もゆずって、廃棄物は考えないとしよう。その上で、安全性とはなにか。
委員長もいうように、安全性にはレベルがある。原発の真上に巨大な隕石が落ちても、直下型地震に見舞われても安全、という高いレベルから、低いレベルはきりがない。その間のどこに決めるか。
反原発の考えに近い人は、できるだけ高いレベルを要求するだろう。それに反して、経済性を重視する人や、軍事利用を考える人は、なるべく低いレベルを要求するだろう。
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いったい、どのレベルの安全性に決めるのか。それは、多くの国民の生命と健康に、計り知れないほどの大きな影響を及ぼす。だから、専門家集団の委員会に任せることではない。国民の意見を反映した政治が決めるべきことである。
それなのに、経産相は委員会が決めろという。責任は、当然のことだが、決めた機関が負う。つまり、責任を委員会に負わせようとしている。委員会を隠れ蓑にし、再稼働しようとしている。
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ここで言いたいことは、しかし、原発の安全性を確認して再稼働する責任は政治が負え、ということではない。原発は安全だとして再稼働を進めることに異議を唱えることである。原発に安全などありはしない。だから、責任の醜いなすり合いをする。
野田内閣の、こうした無責任体制を指摘したい。そして、その根源に遡って反省してもらいたい。
(※注 原子力規制委員会の見解は ココ 枝野幸男経産相の見解は ココ)
(前回 TPPに対する民主、自民両党の覚悟)
(前々回 原発ゼロ政策の後退)
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